ヘルタースケルター 女性の女性のための女性映画
蜷川実花のへルタースケルターは一も二もなく待ち望んだ映画だったので早々に観て来ましたよ。多分この映画に対してみんなが求めているもの全てを満足しえる映画になっていたのではないだろうか?と思うほどのサービス満点な映画でした。
例えばみんなが期待した見所は以下のようなものだったのではないでしょうか。
・沢尻エリカのヌード及び濡れ場
・蜷川実花の写真世界(退廃的ロココ趣味、新鋭ファッション、花、女の子)
・桃井かおり、寺島しのぶ、沢尻エリカの超演技派女優対決
・岡崎京子の原作世界
それに加えて、主人公であるりり子が超人気女優の座を維持するのと引き換えにした何かの孤独と、実際生まれながらにして容姿端麗であり人気女優の沢尻エリカ本人の孤独のシンクロがいかばかりのものかなどの考えなしでは見られないじゃないですか。そういったものが惜しげもなくすべてぶち込まれている。
特にエリカ様は撮影後体調崩したといって雲隠れしたじゃないですか。どう想像しても、それって役に入り込んだのが抜け無くて精神に負担が来ているとしか思えなかったし、ダークナイトにおけるジョーカーの役作りでのヒース・レジャーの末路も記憶に新しいところでしょ。そこまで自分を追い込んだ演技ってどれだけのものか気になるじゃないですか。
演技の理論にスタニフラフスキー・システムというのがあって、簡単に言ってしまうと役の人物と俳優の同一化を行って感情の流れや行動を自然に見せる方法(ようするに役へのなりきり)なのですが、そういった技法の実践とおぼしき沢尻エリカの演技は鬼気迫るものでした。たとえば整形外科の看護婦がりり子を支えようとする場面で怯えて動揺しているりり子が「さわるなブス!」と吠えるところとか、単に高飛車な女が人を見下しているだけでないものを見事に表現していたと思います。
マスコミに叩かれまくって精神状態を崩していく主人公を、やはりマスコミと同じような確執のある女優が演じるワケですから、観る方も感情移入せざるを得ないです。
そんな中、ものすごく気になるのが男優陣ですね。女優陣のコッテリとした情感の演技に対して、物語に登場する男性はみんなペラッペラ。愛人役の窪塚洋介の表現が軽薄なのは役の位置としてもっともな感じがしますが、物語の狂言回し役として登場する大森南朋の薄っぺらさには男性として違和感が物凄く残りました。あれはいったいなんなんでしょうね?
女優陣が脂っこい演技のオンパレードだから、その対比として沈静化させるものを置くという考えはわからないではない。それでも感情を共有化できる男性として機能させることを拒むようにして大森は演技します。それはともすれば大森がダイコンなんじゃないか?という疑惑さえ起ってくるほどです。
いろいろ考えてふと思ったのが、これを観た女性はそんなことに気が付きもしないんじゃないか?ということです。これは女性の作った女性のための女性映画だという事実があります。
原作はコミックですから配役のステレオタイプ化はキッチリ行われているはずで、男性の役柄はセックスの相手(窪塚)なのか権威・金づる(哀川)なのか混沌としたものに対して分析と解説を行う人(大森)であるかという分類として登場しているのでしょう。そのとき、この物語の中では、感情の共有化の必要がないものとして男性が描かれていると感じた次第。というか女性にとっての男の役割ってもしかするとそれだけなのかと「うん。当然でしょ。」なんて言われそうで、それはそれはコワいお話でございます。
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Comments
お久しぶりです。これ、僕も見ました。“女性による女性のための女性映画”ってのは凄く納得ですね。男のキャストはほとんど添えモノでしたし(苦笑)。
僕が行ったときはカップルで見てる人もけっこういたんですが、これ、絶対デート向きじゃないですよね。観終わったとき、男としてはどんな顔していいのか困っちゃいます(苦笑)。
Posted by: Y.HAGA | August 03, 2012 09:35 AM