歌がうまくなることと写真がうまくなること
知人と写真の話をしていたら「自分の撮ったものを現像してみると、自分のイメージどおりに撮れてないもどかしさを感じる」なんて事を言われた。ま、ワタシだってあるし皆も感じたことがあるでしょう。
要するにただシャッターを切るだけじゃだめで、やっぱし写真を撮るテクニックがあって自分のイメージ通りのものが表現できるのでしょうね。
そして、こういうふうに撮ったときはこんな風に写るんだとかが、体に染み込んでないと自由闊達に写真撮影出来ないのかもしれません。(話はそれますが、トイ・カメラが流行った経緯は、どんな風に写るかわからないのが前提にあるから、自分のイメージと離れたものが出来てきていることの意外性を面白がるという、逆転の発想からきているのでしょう。そこにはテクニックは必要ないので敷居が低いのが大きかったと思います)
そんなことを話していたら、前にもつぶやきましたけど、歌をうたうには自分の声を録音して何度も聴いて自分の声を覚えることが重要だということと、きわめて似ているのじゃないか?と感じてきました。
自分の声がどんな声か、実は本人は分かってないという事実があります。それは体の構造から、自分の発した声が単に耳からでなく、体の中の響きをともなって自分に感じられているからです。
人に届いているのがどんな響きかわかってないにも関わらず、その声を使って自分の思うとおりに自由に表現できるでしょうか?それは無理というものです。だから自分の声がどんな声なのか、どんな時にどういう風に響くのかを体に刷り込まれるまで覚えることが重要なのです。
でね、結局は歌も写真も、自分の納得のいくまでやりこむのが上手くなることの秘訣なんだなと。ま、こういうありきたりの結論になってしまうのですね。好きじゃないとなかなかそこまでやらないですね。だから「好きこそものの上手なれ」っていうのです。
歌うたいは、歌が好きであるのと同時に自分の声が好きになってないと、なかなか本物じゃいられません。写真家だって写真が好きなのと同じように撮ることが好きじゃないとやってられない。
深ーいような話でいて、あったりまえのハナシですいません。
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