本覚坊遺文 (井上 靖)
もう、文豪と言って良い井上靖。
最近のワタシのブームである、古田織部の小説が読みたくて、探し当てたのがコレ。
もう絶版なんだろうか?古本屋で入手。絶版なんて、もったいない。名作なのに。いやホント。素晴らしい。
利休の弟子である本覚坊という人は、本当にいたそうです。はしがきでは、この本覚坊の覚書があって、それを現代語訳したとあるのですが、実はこの作品自体は創作だそうで。
文豪は見てきたような嘘がつけなければなりません。時代考証から茶道具のことから、緻密な調査があるんですね。ワタシは最近、古織の研究書みたいなのを色々読んでいたので、ソコのところが良く分かって、ニヤリとします。コレは凄いねぇ。
作品は本覚坊の、利休と関わりがあった人との会話や、日記形式で、亡き利休への想いが綴られていきます。
山上宗二(実際には出てこないけど)・古田織部・織田有楽などが章立て毎に出てきます。なかでも、織田有楽はキャラが立ちまくってて良いねぇ。
利休を含めて、そういった人たちの生き方や、死の謎(謎といえば、謎の多い世界。利休の切腹を初めとして、山上宗二は、秀吉に耳鼻そぎ落とされてるし、古田織部も冤罪としか思えないカドで家康に切腹申しつけられている)に迫るといった内容を、極めてサラッと読ませてくれる。
テーマ・伏線などの技法・しみじみした読感。最近、小説といえば、トンがったやつばっかり読んでた気がするから、こういうの読むと、やっぱり文学って凄いなぁと、感動ひとしおでした。
侘茶と禅は大変似たものですが、異なるものだと織田有楽は言います。利休が茶室で表現していたのは、禅ではなく、やはり茶の道であったと。利休も古田織部も、茶の道に殉じたのだと。
禅は宗教として、死を、宇宙を、理解するものですが、侘茶も道として同じことをなぞっているように思います。何が異なるのでしょう?
そこの部分は、ワタシにはまだ良く分かりません。「宗教」と「道」の違いなのか。
かなり前に、新渡戸稲造の「武士道」について書いたことがあります。
新渡戸稲造は、その論文の序章で、「日本人は、明確にこの宗教を信じているという人間が少ないが、社会人としての倫理観はどこから来るのか、欧米人は不思議に思ってる。実は日本人には欧米に無い「武士道」の心があるから、無宗教であっても社会がなりたっているのだ。」(かなり意訳です)と言っています。ワタシはここに、「武士道」だけではなく、いろんな、「~道」ってものがあるんだろうなと思っていると。
茶の道然りということは、この本読んで、切に想う次第であります。
(今ふっと思い出したけど、先日の村上和雄氏の「科学に対する態度」も似たものがあるなぁ)
しかしなんだね。古い話を蒸し返して申し訳ないけど、最近の日本の社会の荒れ方は、こうした「~道」が廃れてきたことにあると、切実に思うね。それが「極道」であっても「ROCCK'N ROLL道」であっても、良いと思うんだけどな。
道を外れちゃ、やっぱり駄目だよなぁ。
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