武士道(新渡戸稲造)
新渡戸稲造という人は、5千円札の肖像になっている人ですね。この人の「武士道」という本が先日、ネットの本屋にてベスト・セラーにランク・インしていたことがあって、不思議に思っていて、手にとりました。
ランク・インしていた理由は、その後調べたところ、映画「ラスト・サムライ」に出演するトム・クルーズが、勉強のために読んでいたのがこの本だったとのことで、それを聞いて自分も手にとってみるという行動に出るとは、なかなかマニアックというか、日本のファンも捨てたもんじゃないなと、感心しきりでありました。ワタシは単にミーハーに、みんなが何で読んでるか知りたかっただけなんだけどね。
さて、この本は、新渡戸稲造が欧米向けてに、日本の武士道について説明した、原本が英語で書かれた論文を逆に日本語訳したものです。それゆえ日本の文化を知らない人にとって分かり易く書かれており、また、現代の日本人が読んでも「成る程」と改めて理解出来る良書でしょう。
武士の在り方・しきたり・作法がいかに合理的であり、生きること・死ぬことを慮ったものであるかということに、目から鱗が落ちた文面は枚挙に暇がありませんので、興味がある人は是非手にとって頂くということで、ここでは触れませんが、ワタシの心を打ったのは、この論文の書き出しにて、「日本人はその多くが決まった宗教を持っていない。欧米人はそこが理解できないのであるが、何故、無宗教で社会が成り立っているかというと、日本人の心に武士道があるからである。この武士道こそ、日本人の倫理を決定する役割を果たしてきた・・」という論旨で、では武士道とは何か?に至っていくところでした。
「多くの日本人が宗教を意識していないのは、武士道がそれに代わっているからである」という解説は、「成る程そうだったのか!」と、ワタシの目を見開かせてくれたのです。これで合点が行くことが、今の世の中にもなんと多かったことか。
人間社会を語る上で、こういった宗教の重要性を垣間見たのは、カール・セーガンの書いた小説「コンタクト」ですね。
この小説の中で、主人公は、異星人とのコンタクトを目的とした宇宙船のクルーの選考会に残ります。この選考会の中で「あなたの宗教は何か」と問われ、「無宗教です」と答えると、これが大問題になってしまうというエピソードがあったんです。初めて地球外の者と会う人間が無宗教であってよいのか?この人の倫理観とは何なのか?主人公は、悩みます。自分が信じて来たのは神ではなく、科学なのだと。(この小説も凄く面白いですよ。映画にもなってたな。)
ワタシはこれを読んだとき、科学に生きて殉じて行くなら、それは立派な科学道という宗教に近いものなのではないか?と、思ったのですが、それは極めて日本人的な、日本人にしか持てない発想だったかも知れません。
要するに、日本人は宗教と同じ感覚で、「なんとか道」という範疇の中で、社会規範であったり、生きること・死ぬことを学んでいたのです。「道」は、武道・剣道・茶道・華道・まんが道・・・といろいろありますが、その全ては、目的を達成するための動作の定義であり、目的は例えば生け花だったりお茶を立てることだったりと、目先のものもありますが、どれも生きる道に通じ、生きる覚悟=死ぬ覚悟まで昇華しています。そして、こういった「○○道」って言い方を、これまでの日本人は好んできました。
しかし、あるジェネレーショーンからか、なにかのムーブメントからか、こういった「○○道」という考え方を排除する傾向が出てきたような気がします。今の若いコ達が、「「○○道」を追求するぜぇ」なんて言ってるのを聞くのも、少し気持ち悪い気がしてきたのも、事実です。多分、都会からヤンキーが消えてから、こっちのことかも知れないですね。
しかし、そうした風潮から、日本人の心が何かの宗教に改宗したとか、そういうことはないため、倫理が荒廃して来たという考えは、極端に過ぎるでしょうか?
凶悪犯罪の低年齢化は、こうした風潮に基づくものだと思えてなりません。別に、宗教を持とうとかそういう考えは、ワタシにはなくて、生きること・死ぬことを真摯に考える環境があるのか?という問題提起なんですけどね。
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